成長した息子に想う、子育ての嬉しさと寂しさの話

赤ちゃん 子育て
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土曜日の午前中。

今日は息子は夫と車の点検でディーラーに行っています。

 

乗り物好きなのと、ディーラーさんでは待ち時間にジュースやちょっとしたお菓子をだしてくれるので、車関連のお出かけは2人で行くことも多く、私にとっては、ビバ、フリータイム。

最近増えてきたこういった時間は、嬉しくもあり、母離れを感じて少し切なかったり。

 

 

されはさておき。

Google Photoを使っているんですが、最高じゃありませんか?

 

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子育てに思うこと

開くたびに出会える〇年前の息子

写真の9割が息子の写真なのですが。

Google Photoの思い出機能で、〇年前の息子がアプリを開くたびに勝手に出てくる。

 

 

この罠にうっかりハマり、息子の写真や動画を漁ってしまうことしばしば。

 

 

そして。

なぜか懐かしくてまた見たくなるのは、息子の0~2歳の赤ちゃんだった頃。

 

子どもは3歳になるまでに一生分の親孝行をする

どこで聞いた言葉だったか忘れてしまいましたが、記憶に残っている言葉。

それだけ、3歳になるまでの3年間は親にとって宝物のような時間、ということなのでしょうね。

 

 

冷静に考えればですね。

息子が0歳の頃はとにかく寝不足で、それに加え、ぎっくり腰、右手の腱鞘炎、左ひじの手術(幼少期の複雑骨折の後遺症)で両腕同時期にアウトで詰む、かぜをこじらせ1ヶ月声が出ない(今だったらアウト)、など、不調のオンパレード。

 

1歳代、2歳代は、イヤイヤ絶頂期で相当イライラもしていたはず。

 

 

それでも、今振り返ると、その頃の我が子はこんなに愛おしい。

人間って、つくづく過去を美化する生き物だな~。

 

 

もちろん、今の息子は息子で、やっぱり超絶かわいいと思っていて。

可愛さの質も、大変さの質も、年齢とともに変わっているというか、ね。

ただ、今年小1の息子を見ていると、いつまでこんなにベタベタさせてくれるのかな~と不安にもなる。

 

子育ての階段

そういえば。

息子の卒乳の時も、母と子の絶大なる繋がりが終わってしまうような気がしてすごく切なかった。

おしゃべりが段々上手になった頃、「私にしかわからない言葉」が減ったようで寂しかった。

保育園のお友達の話をよくするようになった頃、息子の世界はどんどん広がっていくのだと認識し、これもまた寂しかった。

 

 

成長の嬉しさと、親離れのカウントダウンの寂しさ。

子育てはいつだって、その気持ちが目まぐるしく一遍にやってくる。

 

 

でも、振り返ってみれば。

 

 

息子の卒乳の時、母子の特別な繋がりがなくなってしまうような気がしたものの、実際はそんなことなかったし、おしゃべりが上手になっても、一番息子の言っていることを理解しているのはやっぱり私だったし、お友達が増えても、母親が気持ちの安全基地だと思えたし。

 

やっぱり、子育てのステージが変わっても、また次のステージに行くだけであって。

次のステージには次のステージなりの喜びがあるし、それなりの悩みも伴う。

 

 

だから、今私が小1の息子に感じる一抹の寂しさも、次のステージの喜びと大変さにまた埋もれていくのでしょうね。(大変さはできるだけお手柔らかにお願いしたい)

 

 

そして、いつの日か最終ステージを迎える時が、子育て終了、というわけか。

高校卒業時?

就職時?

いやまだその先?(この可能性はあまり考えたくないけど)

 

 

これはこれで、想像すると寂しいことこの上ないのだけれど、最終ステージをクリアしたら、今度は次の世代にバトンタッチ、ということなのかな。

こうして、連綿と、命は続いていくのですね。(なんか大きい話になってきたな)

 

まとめ

こんなことを考えつつも。

今日も今日とて、私は息子のおしりを追い掛け回すのでしょう。(いつまでおしりを触らせてもらえるかが、一つの大きなテーマ)

おしまい。

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