「あちこちオードリー」という番組が好きでよく観ています。
先週のゲストはクリーピーナッツの2人。
トークの中で、若林さんが彼らに「お前らはもう”持たざる者”じゃないんだからな」的なことを言っていた。
一年ほど前にも、クリーピーナッツの2人がゲストで来ていて、当時の彼らは「テレビに出る人」としては駆け出しの身。テレビの世界の違和感を怒涛のように語っていた。何も持っていない彼らは、誰にも忖度せずにそれはそれは自由に。
それから1年。
テレビの世界で売れっ子になって同番組に再登場した彼ら。
1年前の「持たざる者」としてのトークは勢いがあって面白かったけれど、もうあの頃のように「持たざる者」としてのトークはできないんだよ、もう2人は「持ってる側の人間なんだよ」という若林さんの指摘。
はて・・・。
「持つ者」と「持たざる者」の境目ってなんなんだろう?
翻って・・・私の場合
人生後半戦に入りつつある、アラフォーの私。
20代後半までは確実に「持たざる者」だった。
大学受験にも失敗し、就職にも失敗し、プーの期間もあった。
それでも、言えば「そこそこ優秀ね」と思ってもらえる学歴だけは携えてもらったのはありがたいこと。でも、奨学金や学費のおかげで親も私もお金がなかったけれどね。
そして、今の私。
なんとなく「中流(の中でも少しだけ良い方寄り)」な感じになってきている。
日々の暮らしには困らないし、家庭を大事にする夫、とてつもなく可愛い息子(すみません)、今のところ安定した仕事、持ち家、将来に向けての夢。
いつからこんな感じになったのかな?
どこが境目だったのかな?
「持たざる者」でなくなって、なにか失ったものはあったのかな?
よくわからないけれど。
確実に言えるのは、「この暮らしが当たり前ではない、いつまで続くかは誰にもわからない」ということ。
これは、元「持たざる者」だったからこそ感じる危機感なんでしょう。
今や「ちょっとだけ持つ者」な私。
仕事では、生意気にもノブレス・オブリージュ的なことを考える機会も増えました。
ノブレス・オブリージュという考え方
「持つ人は社会で果たさなければならない責任がある」「自分の能力を他者のために使わなければならない」そんな感じかな。
鬼滅でいう、煉獄さんの母の教えですね。
先週、子供関連のとあるコミュニティの役員決めがあったのですが。
実は、一人で勝手にちょっとモヤモヤしてしまって。
私、会長でも副会長でも会計でも書記でも、基本どれでもそれなりに適当にやれると思うので、どんな役が来てもいいや~と思っていたのですが。
ママ友さんとの関係もあり、一緒に「一番下っ端役」に立候補し、幸いにもくじ引きで早々に決まり。一安心と思っていたのですが・・・。
案の定ですね。
残った方々、会長などの上役決めに難航しているようでして。
それを見ていて、あと少しのところで「私、会長やりましょうか」と言いかけたのですが。
コミュニティのことがあまりわかっていない私がしゃしゃり出るのもな~とか。
見ず知らずの私に助けられたくないかもな~とか。
ママ友さんと一緒にやるといった手前、勝手に抜け駆けするのもな~とか。
いろいろ考えたら声が出ませんでした。
その後、なんとか会長さんはじめ全ての役が決まりました。
でも、会長さんに決まった方、挨拶だけで顔が真っ赤になっていて、「やらざるを得ないとは言え無理してるのかな~」「やっぱり私が手を挙げてたらよかったのかな~」とモヤモヤが続いています。
結局、私は、「ちょっとだけ持つ者」なだけで、「持つ者」ではない。
本物のノブレス・オブリージュは人徳者がやるからこそのもので、私のように人徳がない人がやろうとするとかえっておかしくなったりするんだよね・・・。
なんてことを。
週末、歩きながら考えていました。
銀行に用事があったので、散歩がてら、てくてくと。
考えてる途中、遠くで、チリンチリーンと音がした。
正確には、なんとなく音を聞いたけれど、考え事をしていた私はあまりはっきりとは認識できず。
その少し後、私を自転車で追い越していった中学生ぐらいの男の子が、怪訝そうな顔で私をちらっと見ていた。
おそらく、「このオバサン、よけもしないで、まったくもう~」。
そんなところでしょう。
ああ、恥ずかし。ごめんね。
もちろん、別にいじわるで道を塞いで歩いていたわけではないのよ。
でも。
これじゃ、ノブレス・オブリージュが笑ってしまうね。
まとめ
その後、ちょっとだけ反省しながら歩いていると。
遠くから見たら枯れ木のように見える木に、たった一つだけ花が咲いているのを見つけた。梅の花、なのかな。
その健気な姿を見たら、私の悩みなんてどうでもいいな。と一瞬で思えてしまった。
私って単純。
そんな週末でした。