久しぶりの再会
先日、前職の同僚と久しぶりに会いました。
もう何年も前に一緒に働いていたのに、いまだに連絡をくれて、時々近況報告をし合える関係。ありがたいなあと思います。
今回も、近況を聞きながら楽しい時間を過ごしました。
でも帰り道、なぜか私は小さなモヤモヤを抱えていました。

久々に会ったAさんのこと
その日会ったのは、前職で一緒に働いていたAさん。
私が課長だったころ、彼女は派遣社員としてチームに加わってくれた方です。年齢はほぼ同じ。でも、彼女は若くして出産されたので、今ではお子さんもすっかり大きくなっています。
仕事では本当に信頼できる方で、まわりにもすっと馴染むタイプ。私自身もたくさん助けてもらいました。
私が退職してからも、年に一度くらいのペースで「そろそろ会いませんか?」と声をかけてくれる、そんなありがたい関係が続いていました。
今回の再会でも、Aさんは相変わらず私のことを「良い上司だった」と言ってくれました。
「すごく働きやすかったですよ。また戻ってきてほしいなあ」…そんなふうに言ってもらえることが、今でもうれしい。
ただ、今回は少し違いました。
Aさんは、新しい上司や仕事のやり方に戸惑っているようで、悩んでいる様子でした。
「仕事を辞めようか悩んでいるんです。」とつぶやいたAさん。私はとっさに何も言えなかったんです。
なぜか落ち込んだ私
帰り道、私は申し訳ないことに自分のことで頭がいっぱいになっていました。
「気の利いたことが何も言えなかったな」
「もっと役に立てたらよかったのに」
Aさんは、私のことをいまだに「良い上司だった」と言ってくれます。でも、そんなふうに言われるたびに、うれしさと同時に、ちくりと胸が痛むような感覚もありました。
今の自分はどうだろう?
そう考えはじめると、なんだかどんどん自信がなくなっていって、しまいには「今の私に、Aさんにアドバイスできることなんて何もない」という、卑屈な気持ちがわいてきてしまったんです。
私はいったい、何に落ち込んでいたんだろう?
卑屈の正体
Aさんとの再会のあと、自分の中の「モヤモヤ」や「卑屈」の正体についてずっと考えていました。
考えてみると、思い当たることがありました。
ひとつは、「社会とのつながり」や「役割」の変化。
今の私は、自分の名前で仕事をしているとはいえ、課長という肩書きや会社の看板はなくなりました。たぶんそれが、無意識のうちに「アドバイスなんてする立場ではない」というような気持ちにさせているのかもしれません。
そしてもうひとつ。
これはなかなか根深いのですが、私の中に、「会社員としてフルタイムでがんばって働く=立派」「今の自由な働き方=逃げている」という思い込みが、存在する気がするのです。
誰かが私を責めているわけじゃないのに、勝手に「今の私は人の役に立てていないんじゃないか」「甘えてるんじゃないか」…なんて、つい自分を責めてしまう。
そういったことが、私のモヤモヤの正体だったんだろうと思います。
それで、どうしたいの?
本当は、今の働き方にちゃんと納得していたはずなんです。
時間を自由に使えて、心の余裕も増えた。
子どもの成長を近くで見守れたり、家族との会話が増えたり、“生活を大事にしたい”という昔からの思いをようやく形にできた今の暮らし。
なのに、いざ昔の同僚と会うと、勝手に防御的になってしまった自分がいました。
でも。
「じゃあ、前の会社に戻りたい?」と聞かれれば、それは明確に「No」なのです。
たぶん、昔の私は「がんばってるね」って言われることで、自分の価値を確認してきたのだと思います。
でも、今の働き方では、そういう言葉をかけてもらう機会はぐっと減った。だからこそ、ときどき「これでいいのかな…」と自信が揺らぐのかもしれません。
だからこそ、今の私に必要なのは、他人の評価ではなく、自分自身の納得感。
「どれだけ稼いでいるか」や「どんな肩書きか」ではなく、「何を大事にして、どう働きたいのか」を、自分に対して何度でも問い直すこと。
おわりに
今回、Aさんと再会して感じたモヤモヤは、「今の自分の働き方、本当にこれでよかったのかな?」という、あらためて湧いてきた問いそのものでした。
そうやって、何度でも問い直しながら、自分に合った働き方を探していけたらいい。自分の選んだ道に、自信がもてないときがあってもいい。
Aさん、今回も誘ってくれてありがとう。自分のことを少し考え直すきっかけをもらえました。